光國本店と夏蜜柑菓子の歴史と由来

▲三代目店主 光國義太郎の記した「日本最初の夏蜜柑の由来」と「夏蜜柑菓子と老舗の沿革」

「日本最初夏蜜柑の由来」

安永の初年(今より百八十有余年前)山口縣長州萩港の沖、日本海の孤島で青海島大日比(オオミジマオオヒビ)と云う村落ありて、男性の入門を禁じられた尼僧修行道場で有名な尼寺があります。
その尼寺の海辺に一つの珍らしい果実が漂着せるを拾いてその種子を撒附けたものが発芽成育したもので、初めは「宇樹橘(ユズキチ)」と呼び、何人も食用に供した者もなく、然るにその後文化の初年、夏期に食して美味なる事を初めて覚り、「夏橙(ダイダイ)」と名付けて大日比より萩町江向の士族、楢崎壱十郎兵衛へ贈った。
その贈られた果実の種子を蒔きて愛育したるもの、之が萩町に於ける種子蒔きの創初であります。

明治の初年、廃藩置縣の為め、萩城での士族は食禄を失はんとする當り、藩主、毛利公の奨励に従い競って種子を需め庭園と畑地とを問はず栽培して、活路を開き初めました。
當時、萩町河添区の住民、小幡髙政は”祖式宗助””宍戸某等”らと相謀って、同志を募り、萩地方は夏蜜柑栽培に最も適し恵まれたる地質と気候とが相俟って、之が産業的計画に基づき栽培を施く奨励しまして、終に長州本場夏蜜柑と名附けて広く全国に輸出をするに至ったのであります。

日本最初夏蜜柑の原樹は史蹟及び、天然記念物に指定されて、山口縣長州青海島の大日比村落に老樹の子木、今尚生存して居ります。

夏蜜柑菓子と老舗の沿革

夏蜜柑の皮を初めて菓子につくった人は、長州萩町漁人町(リョウドマチ)の釣道具及、砂糖商、森重正喜であります。
然るに、その品は鬼皮の侭でつくったもので、頗る苦味多く食べてゲップに出て困ると云う品でありました。
その當時、萩城下町呉服町一丁目で菓子司、光國作右ェ門は之れを改良するに苦心研究の結果、終に完成し、明治十三年、萩名産「夏○薫」と名附けて売出しました。その子、二代目光國貞太郎は、明治二十三年内閣々益大博覧会へ出品して、一等金牌を受領し、亦、文部大臣柴田家門閣下、畏くも摂政東宮殿下、皇后陛下、山口県行幸啓に際し、お買い上げの光栄を賜りました。

其の後、光國貞太郎は、実弟福五郎と共同して「萩乃薫」と改名し、以って日本政府特許局へ登録を了し、現代に至って居ります。
現代店主(三代目)光國義太郎は先祖伝来の秘伝と、独特の新技術を併用して、昭和三年大禮記念大博覧会(京都)に出品し、山口県菓子業者出品中、第一位の栄誉を得ました。亦、昭和二十六年、山口県代表銘菓として入選しまして、重々の光栄を荷いました。(以上、各証據書類小店在庫御覧を乞う)

政府登録「萩乃薫」は、夏みかん丸漬け、夏みかんマーマレード缶詰と共に今や天下の一流菓子として名門諸彦より続々ご注文御賞讃を戴いて居ります。
何卆御用命賜り度偏に懇願申し上げます。

 

昭和三十一年 記
三代目店主 光國義太郎 謹白